5月15日は賀茂祭(葵祭)です
まずは成り立ちからご紹介いたします
賀茂祭は祭儀に関わる全ての人々、社殿の御簾また牛車に至るまで二葉葵を桂の小枝に挿し飾ることから「葵祭」として知られております。
賀茂旧記に「吾に逢わんとすれば奥山の賢木を取りて阿礼を立て、種々の綵色を飾り、又、葵楓の鬘を造りて厳しく飾れ」 とのあり、その神託により毎年賀茂祭に当たり葵桂を神前に供しているとあります
6世紀・古墳時代後期に日本国中、風水害により甚大な被害を受け、国民の窮状がひどかったために、勅命により卜部伊吉若日子(うらべのいきわかひこ)に占わせたところ、賀茂大神の祟りであるということで四月中酉(旧暦)を選び、神託に基づき祭を行ったところ、作物は実り天下太平になったと伝えられております。
その後、奈良時代には毎年、国司が祭の場に臨んでこれを検察するようにと元和天皇が勅せられました。ちょうど日本初の流通貨幣として知られる和同開珎が発行された頃です。
約100年後、平安遷都をされた桓武天皇の長男である平城天皇が勅祭(勅命にして行われる祭祀)として賀茂祭を始められ、続く嵯峨天皇ころに伊勢神宮の斎宮の制に准ぜられ、斎院(斎王)を奉られ、祭に奉仕されるようになりました。
そして平安時代中期、貞観の治で知られる清和天皇の御代に勅祭賀茂祭の儀式次第が定められました。
また源氏物語の「葵」の巻では、賀茂祭の折に、源氏の正妻・葵の上の一行と、六条御息所は見物場所をめぐって車争いをしたと、紫式部は綴っております。この時代の日記・書物に賀茂祭をただ「祭」とのみ記したのは、祭儀の行列がいかに盛大であったかを物語っております。